太宰治が暮らした下宿、碧雲荘は残せるか
またしても、手遅れになりそうなことになっている。荻窪駅の北側、杉並の天沼にある小説家の太宰治がかつて暮らしていたアパート「碧雲荘」が、今も現存しているが、隣接地の公務員宿舎の建て替えを進める杉並区によって土地が買収され、新しく建てられる複合施設の一部に飲み込まれる形で、いつ取り壊しされるか分からない状況となっている。そこで緊急会合「太宰サミットin荻窪」が開かれた。 太宰治は、39歳で玉川上水で入水し若くして他界しているので、その作家活動期間は決して長くはなかった。作品は、大きくは前期、中期、後期とに分けられる。「走れメロス」に代表される明るい文体のものは中期に多く、そこに至るまでの前期は暗い、自虐的な作風で精神的にも不安定な時期であった。その前期の大部分を太宰は杉並で住居を転々としながら過ごしている。太宰にとっての杉並生活は、太宰文学の出発地とも言える。一時期、杉並を離れ船橋で活動し、世間に注目をされ出すが、麻薬中毒の疑いや精神病棟への入院など失意の連続を繰り返した後、また杉並に戻って再出発を図る。そこで長い寡黙な時期を過ごした後に「満願」を執筆し、明るい平易な文体を特徴とする中期の作品群に昇華していった。その後、甲府、三鷹と移り住み、数多くの名作が書かれるが、その重要な転換点を過ごしたのが、この碧雲荘であった。 太宰の遺構として有名なのは、生家である青森の金木町の「斜陽館」があるが、それ以外で現存する建物はほとんどない。三鷹時代の住居なども全て取り壊されてしまっているから、この碧雲荘の貴重さは特筆すべきものがある。「富嶽百景」でアパートの便所の窓から見えた富士が忘れられないと書かれているが、その便所がこの建物の2階に今も現存している。
玄関が並んで2つあり、左が自邸、右が下宿の玄関で風格に差がない
さらに言えば、太宰治のことを抜きにして建物としてだけ見ても、その遺産的価値は高い。この建物は築80年ほどと見られる。戦前の昭和10年代くらいまでに建てられたいわゆる和洋折衷の洋館を併設したスタイルでありながら、外観は洋式的な表現は控えめになっている。自邸と高級下宿を併設した構成で、道路手前の2階建て部分は、右側の下宿用玄関を上がってすぐの階段をのぼった2階に5室の下宿となっている。太宰の部屋は、一番東南角の8畳間であった。建物の奥は平屋になっていて、中庭をはさんで渡り廊下でつながっている。上から見るとH型の平面計画となっている。正面から見ると、頂部に飾り破風が施され、軒裏は網代が張られ、茶室建築のような趣がある。下宿部分も、各部屋には意匠を凝らした床の間が設えられており、下宿と言っても高級下宿と言ってよい。
軒裏に網代編みを使用するなど、意匠が凝らされている
移築保存を訴える掛札
その建物が今、取り壊しの危機に瀕している。杉並区からは、すでに周辺住民に対して建設計画の説明会が開かれている。元は荻窪税務署の敷地であったものを区が等価交換で取得し、駅前にある施設の移転を行うというものだ。計画図を見ると、碧雲荘がある位置に、新しい建物の外形線が重なっているのが分かる。新しく建てる複合施設にどのような要件が課せられているのかが不明であるが、これだけの文化的、歴史的価値の高い建物を壊してまで確保したい施設がどんなものなのか詳しく聞いてみたいものだ。歴史的建物の価値を計る手法が確立されていないとは言われるが、そんなこともなく、収益還元法や再調達価格法などを用いて十分に算出できる。収益還元法は、将来に生み出す収益の積算だ。例えば、観光的な施設にして、その入場料などが収益源となり得る。飲食スペースを一部に確保して、テナント賃料を得てもいい。再調達価格法では、昭和初期の建築構法と全く同じものを建てる困難さを考えると、相当な積算額に上るだろう。プライスレスと言っても良かろう。一方で、杉並区が計画している公共施設の経済的な価値はどの程度となるであろうか。もしもであるが、少なくとも経済合理性のない計画に対しては、区民はノーと言うべきではないか。
背後にそびえる公務員宿舎はすでに空き家状態で、解体を待つばかり
建設予定の「複合施設」の建設お知らせの看板
緊急サミットの様子(津島家のご子孫の方も参加)
複合施設と高齢者施設の計画図(右側青線が碧雲荘の位置)
↓↓↓杉並区に対する保存要望の署名用紙です。
碧雲荘の所在地:東京都杉並区天沼3-19-22 https://goo.gl/maps/5dXhM
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